境界をあるく美術家。
わたしは、風景画という絵画のいち形態を端緒として「風景のなかにみた色を再現する」というひとつの行為を選択し、現代における風景画とは何なのかその意味について考えつづけている。
実際に触れた日常の出来事や風景の記録写真をモザイクに加工し、色の情報だけを抜き出し、忠実に絵の具でドットを描いていく。実際にあるくアナログの行為、デジタルをとおして処理された情報、そしてまた自分の手をとおして再現される色。果たして「色をつくる(mix)」「塗る(paint)」「描写する(depict)」に解体された風景画は何を意味し、観賞者はそれをどのように観るだろうか。
解体され抽象化された風景画は、それを読み解く時間をかけて観る者に情報以上のものを伝えられるのではないかと思う。絵の具や帆布の物質性や筆致、作家の身体性という些細な現象を含んだうえでの別のなにか。それは、余分を削ぎ落とした絵画を前に際立つ、観る者の想像する力だ。
リアルとアブストラクト、アナログとデジタル、フィジカルとバーチャル。その境界線を行き来し、パンデミック後の私たちの「世界をあるく」手法のバリエーションを静かに検証するようでもあるが、作者の見た風景はどんなものなのかと想像するなかで、観賞者に絵の意味や自分の美の感覚、そしてまたそのひと固有の世界を思い出させる媒体としての作品になればと願う。
02/05/2022 わにぶちみき
風景の記録写真をいちどデジタルで自動的にモザイク化し、それをアナログで忠実に色を再現しようと試みる。そこで塗るための色は別のキャンバスをパレット代わりにして作成する。そうすることで、色を作るという無意識的で純粋なひとつの作品(mix)が生まれる。色を塗るという無心なもうひとつの作品(paint)が生まれる。
さて、「風景から色を抽出する」という一要素だけに焦点をあてながら風景画(≒絵画)の意味を探るなかで、depict(描く、描写する)をもう一度定義できるだろうか?こうしてトリプティク(三連作)を制作しています。
絵画の要素を分解し極限までシンプルにすることで、その良さや意義のようなもの、つくった作者の身体性や存在が浮き彫りになると考えています。
白い下地材を塗ることからも離れ、布と絵の具そのものの関わりとその面白さに気づいてもらいたい。伝えるのは、主役である物質の在りかたと現れかた、その主役たちの紡ぐ静かな言葉。そしてそこから滲みでるのは作家本人の個性です。
現象は些細です。些細だからこそ、観賞者の感受性を引き出す時間と空間を創りだせるのだと信じて、制作をつづけます。
01/12/2022
抽象化され余分を削ぎ落とした「絵画」は、それを読解する時間をかけて「情報」以上のなにかを伝えられるのではないか、と思う。それは、絵の具や帆布の物質性と筆致、作家の身体性という些細な現象も含んだうえでの「なにか」だ。
“REVIVE”シリーズでは、手術前後の食事の記録を素材にしている。記録写真をモザイクに加工し、色を抜き出し、忠実に絵の具でドットを描いていく。描いたドットの集合体は主人公のいる景色や食べるという行為の時間を内包するが、わたしが絵をとおして観てもらいたいのはそこではない。
風景画という絵画のいち形態を端緒として「風景のなかにみた色を再現する」というひとつの行為のみを選択し、その要素を「色をつくる(mix)」「塗る(paint)」「描写する(depict)」に分解して、画家にとって描くとはなにか、について絵画のなかで思考する絵画を目指している。そのうえで、その思考をなぞるように追体験する観賞者に、答えを自らもとめるということ、をあらためて感じてもらいたいと考えている。
ICTの発展により膨大な情報が瞬時に得られる時代になりました。なにかに対する「答え」も、もはや他者から瞬時に得ることがデフォルトとなっている。スピード感のある流れのなかで美術家が僅かにおぼえる怖れは、世界/モノ/ひとのリアルを忘れないことへの切望かもしれない。NFTの登場により、美術作品の唯一性の定義もさらに揺らぐことになったが、わたしはこの進みつづける世界を把握しつづけるために風景画を描く。
01/12/2021
リアリスティックに描いた絵画はイリュージョンである。対して、アブストラクトな絵画はその絵の具や支持体の物質性と筆致などにより顕れる身体性において、とてもリアルだといえる。
わたしの絵画はそのどちらにも属さない。言うなれば、風景画という絵画のいち形態を端緒として、絵画の絵画たる所以をさぐるものである。「風景のなかにみた色を再現する」というひとつの行為のみを選択するが、このとき、あらゆるものの偶然の介在の可能性を排除しない。
それは単なる描写だろうか。それとも、人と人、人と社会、過去と現在をつなぐ何ものかであるだろうか。
シンプルな行為の結果に、現代のひとが観る絵画の(不)必要性が明らかになる。
01/03/2020
わたしはこれまで、自己と他者の相違を理解しあうポイント(=接点)を境界線と定義して、現代の風景画という側面から作品を制作してきました。その表現の目的は、人が人を理解すること、すなわち他人(ひと)は自分とは違うということを知り受け入れることを、まずはじめの一歩として観る人との間で相互に再認識することにあります。
その境界線 ― おもに白い画面として描かれる ― の向こう側には、わたし個人の見た景色がありました。しかし観る者はその景色を正確には知りません。そこで、観る人には景色を色へと解体したプロセスをなぞるように追ってもらい、そうすれば、わたしの見た景色へと僅かずつでも近づくことができるのではないかと考えたのです。これが「理解」というもののひとつの図解かもしれないと考えています。
のちに、ある廃墟を舞台にした作品を発表しました。展示会期の“現在”を接点とした、その場所の今と昔をつなぐあらたな切り口の作品です。わたしの作品は、厳密に言うなれば、その接点そのものでしかありません。今でもなく昔でもない、こちらでなくあちらでもない。どちらでもない場所に立つわたし(の作品)は空っぽの身体を装置のようにしてそれらを繋ぐだけかもしれない、と感じたのです。人と人、人と場所、場所と記憶。こちらとあちらを繋ぎ、観賞者にあちらを“理解”しようと一歩を踏み出させる、そんな使命をもったトリガーとなる作品をつくりつづけたい。
そうすれば、向こう側を想像するという人に本来与えられた美しい能力が思い出されるはずです。それが、お互いを、世界をほんとうの意味で知り、受け入れ合えるやさしい未来を創ると信じています。
今回はスピンオフとして、自身のルーツを解体する。さいごに病床の祖父と面会したとき、彼はわたしの手を力強くにぎり「頼んだよ」と言ったのだった。強く輝く瞳はわたしに何を託したのだろう?わたしが7歳のときにはじめて絵というものの意味を意識し描いてから、創ること描くこと考えることを教えたのは祖父だった。示し合わせていないのに浮かび上がる共通点。わにぶちみきを知るうえで、みなさまにもおもしろい発見があるのではないでしょうか。
23/08/2019
「鉱山と道の芸術祭」に参加するにあたり 神子畑選鉱場跡と旧神子畑小学校を実際に訪れたとき、一日中響きわたったであろう石の音や機械の音、子どもたちの声や人々のエネルギーが、時間をこえて、わたしの耳を震わせるようだった。
わたしはこれまで自己と他者の相違を理解しあうポイント(=接点)を境界線と定義して、現代の風景画という側面から作品を制作してきました。その境界線 ― おもに白い画面として描かれる ― の向こう側には、いつも、わたし個人の見た景色を想定していました。
でも今回は、わたしも見たことのない景色を想像してみたいと思う。
この静けさに包まれた廃校と選鉱場跡をまえにしたとき、当時のにぎやかさやエネルギーを、ここをはじめて訪れる人や作品を観る人たちにも感じ想像してもらいたい。そのために、わたしや観賞者の立つ「いま」と、ここが栄えた「むかし」のあいだに境界線を置こうと思う。
ときは昭和30年代。
不夜城と呼ばれた神子畑選鉱場。ここではたらく多くの大人たちは、どんなことを感じ、考え、生きていたのか。また、本校より子どもの数が多かった神子畑分校では、やれガラスが割れた、やれ何かが壊れた、となれば選鉱場の大人たちが率先して修繕に来たと言う。子どもたちはおしゃれにベストなどを着こなし、工場で開かれるクリスマス会に参加するなどしていたことを聞いた。当時、ここに通う子どもたちは、どんなことを感じ、考え、生きていたのだろう。
選鉱所場跡のシックナーを布で覆いその白い布を境界線として、また、小学校体育館の窓を境界線として卒業記念の石碑に刻まれた絵をヒントに、この街の「むかし」に思いをめぐらすトリガーとしての作品とする。「いま」のわたしたちの目にはここがどう映り、耳にはどう響くだろう。「むかし」と「いま」を結び、この街とひとを結ぶ作品となればいい。
24/03/2019
わたしたちの“あいだ”に横たわる境界線は、おたがいが完全に同一にはなれない皮膚のような、例えるならば地平線のようなものだと思う。向こうに手を伸ばし触れられたと思えても、いっこうに向こう側へは行けない。けれども、それでいいとも思うのです。「知る」ことは本来簡単なことではないはずだから。
わたしの表現の目的は、人が人を理解すること、すなわち他人(ひと)は自分とは違うということを知り受け入れることを、観る人との間で相互に再認識すること。
白い画面は自己と他者の接点である境界線。その向こうには、わたしの見た景色があります。しかし観る者はその景色を正確には知りません。そこで、観る人には景色を色へと解体したプロセスをなぞるように追ってもらいたいと考えます。そうすれば、わたしの見た景色へと僅かずつでも近づくことができるのではないかと思うのです。これが「理解」というもののひとつの図解かもしれないと考えています。
タッチパネルに触る指先ひとつで何でも簡単に知(った気にな)れる時代になりました。しかし、わたしたちは本当の意味で世界(あなた)を見ることができているのかと、わたしは問うていきたい。おたがいを知り受け入れ合うために、その第一歩である「境界線に気づくこと」を作品をとおして示したい。あなたがその境界線に気づいたとき、その向こう側を想像するという人に本来与えられた美しい能力が思い出されるはずです。人が世界とありのままで受け入れ合えるやさしい未来をむかえるために、わたしは境界をあるきつづけます。
10/10/2018
わたしたちの“あいだ”に横たわる境界線は、おたがいが完全に同一とはなれないという意味での皮膚のようなもの。それは地平線のようだとも思う。その向こうに手を伸ばし触れられたと思えても、いっこうに向こう側へは行けない。けれど、それでいい。だって本来「知る」とは簡単なことではないはずだから。
わたしは、自己と世界(=他者)との接点を探ることを目的に、それらの境界をあるくこと、その境界線を示すこと、その“あいだ”を感じてもらうことを制作のテーマとしています。白で示した境界線の向こうに作家の見た景色があります。あなたは作家の見てきたものを本当の意味で正確には知らない。ただ、景色の色への解体のプロセスを作家の思考をなぞるように追ってみてほしい。そこにじぶんではない誰かの見た本当の景色を知ろうとする想像力がはたらくはずだと期待します。
あなたがその境界線に気づいたとき、想像力というひとに与えられた本来の美しい能力を思い出したい。ひとが世界とありのまま受け入れあえる、穏やかでやさしい未来をむかえるために。
09/05/2017
わたしたちの間には、わたしたちを隔てる境界がある。おたがいが完全に同一とはなれないところの、皮膚のような、バイアスとも呼べるような、境界が。ひとは、それぞれの見方でその向こうを見、そしてこちらを見、見たいようにしか「現実」を見ない。けれど、その境界に気づき、そしてその事実に思い至る、まずはそのことが今のわたしたちには必要ではないでしょうか。
情報のあふれる現代、タッチパネルに触れる指先ひとつでなんでも知った気になれる時代になりました。わたしはそれを怖ろしくすら思う。「知る」ということは本来、そんなに簡単なことではないはずです。おたがいを本当の意味で知り、そして受け入れ合うということのために、その第一歩である「境界に気づくこと」を作品をとおして示したい。
わたしは境界をあるき、そしてそれを描いている。画面を覆う白を、観賞者と絵の向こう側を隔てる境界として。向こう側に見える景色は、果たして、あなたにどんな色を見せるでしょうか。
02/11/2016
わたしは境界を描いている。画面を覆う白を、観る人と、絵の向こう側を隔てる境界として。これまでわたしは、自分と世界の接点、自分と他者との接点を探ることを目的に、その両者の境界を歩くことを制作のテーマとしてきました。実際にその境界と思われる場所を歩き、土地を触ること、人と人とのちがいを知ることなど、フィジカルなインプットの部分を大切にしています。なぜなら、自分と世界(=他者)を本当の意味で「知る(=ちがいを認識する)」ためには、ひとつひとつ触るようにていねいな作業が必要ではないかと思うからです。そしてその過程でぽろぽろと生まれてくる作品のなかに、作家の実際の行為と軌跡、足跡、痕跡を過不足なく表すことが、作家としてのわたしの表現だと考えています。そしてその作品制作の根拠を踏まえながら、観る人にも相手を知ること、世界を知ることについて考える機会をつくることができればと思います。
本来「知る」こととはそんなに簡単なものではなく、自分と「ちがう」ことを理解するためには想像力が必要ではないでしょうか。白の隙間からのぞく色、下からにじみ出すテクスチャ、キャンバスのエッジに残る色の重なりの痕跡。通常わたしの作品では、観る人のまず期待するであろう画面中央にはただ真っ白なことしか提示されていません。作家の情緒の不在、イメージの再現を手放したわけですが、それは絵の具とキャンバスというオブジェクトとしての側面を意識させようとする意図があるからです。そして白い面の向こう側、言い換えれば表面とキャンバス枠との間にクローズアップさせていく。作品のなかにわずかに残るヒントを集めて、オブジェクトから “絵”となるまでの境界に込められた作家の意識と意図と根拠を、観る人に想像してもらいたい。
わたしたちの感覚は、この刺激の溢れる社会のなかで、逆に麻痺してしまっているかもしれません。けれど、そんな世の中であえて情報の削ぎ落とされた静かな作品を提示することで、観る人の思考力や想像力を刺激するものになることを期待します。観る側のそのちからが、また、“美”であるとわたしは言いたい。それが相手を知ろうとすること、世界を知ろうとすることにつながり、世界を救うようなちいさくても優しく力強いちからになると、私は信じている。
03/03/2015
わたしは境界線を描いている。画面を覆う白を、観る人と、絵の向こう側を隔てる境界として。それはちょうど自己と世界、人の内と外を分けるような、境界線。その向こうに見えるもの、それは観る人自身の経験や常識に裏づけられたもので、作家自身の思い、描いたものがそのまま伝わるわけもありません。けれど、それでいい。わたしの作品は、観る人によって見え方が違うということを許容しています。つまり、そこには他人との違いを理解する必要性も生じてくる。
他人を知ること、世界を知ること、そのときに意識せざるを得ないもの。フィルターのように目の前を覆っていた自分だけの価値観や常識を知覚したとき、はじめて本当の意味での外界を知ることができるのではないでしょうか。そしてそれは、自分自身を知ることにもつながる。タッチパネルの向こう側に見える膨大な情報を日々享受する現代ですが、ゆびさきの動きひとつで簡単に世界を知った気になるわたしたちのことを、ときに恐ろしく思うことがあります。本来「知ること」とはそんなに簡単なものではないのではないでしょうか。
白の隙間からのぞく色、下からにじみ出すテクスチャ、キャンバスのエッジに残る色の重なりの痕跡。観る人がまず期待するであろう画面中央には、ただ一面真っ白なことしか提示されていません。作家の情緒の不在、イメージの再現を手放したわけですが、それは絵の具とキャンバスという物質=オブジェクトとしての側面を意識せざるを得ない状況を作ろうとする意図があるからです。そして白い面の向こう側、言い換えれば表面とキャンバス枠との間にクローズアップしていく、この部分が作品の主題です。キャンバスという一個のオブジェクトから絵というイメージになるまでの境界線。そこに作者としての意識と根拠が秘められていることに注目してもらいたい。そしてそのことが結果、観る人の思考力や想像力を刺激するものになることを期待します。
わたしたちの感覚は、この刺激の溢れる社会のなかで、逆に麻痺してしまっているかもしれません。けれど、そんな世の中であえて静かな絵を提示し、観る人それぞれのもつ想像力に語りかけることに、わたしは挑戦していきたい。それが相手を知ろうとすること、世界を知ろうとすることにつながり、そして、世界を救うようなちいさくても優しいちからを生むと、わたしは信じている。
25/05/2014
わたしは境界線を描いている。画面を覆う白を、観る人と、絵の向こう側を隔てる境界として。それはちょうど自己と世界、人の内と外を分けるような、境界線。その向こうに見えるものが、宇宙であれ単なる絵の具の層であれ、それは “ 観る人によって構築された ” 真実であるはずです。経験の積み重ねや、それに基づいたあなた自身の想像力が見せる何か、である。そんなふうにわたしは考えます。
タッチパネルの向こう側に見える膨大な情報を、日々享受する現代。ゆびさきの動きひとつで簡単に世界を知った気になるわたしたちのことを、ときに恐ろしく思うことがあります。嘘か本当かも知れない、その、与えられた情報はただなんとなく刺激として知覚されているけれど、果たして “ タッチパネル越しの世界 ” は本当に存在しているのでしょうか?
白のすきまからのぞく色、下からにじみ出すテクスチャ、キャンバスのエッジに残る色の重なりの痕跡。あえて隠すことによって微妙なヒントだけを残し、制作プロセスのなかで何が起きていたのかをひとつひとつ追ってもらう。はっきりと答えの見つからないこれらの絵を前に、観る人自身の経験・記憶から情報を取捨選択し、想像力を研ぎ澄ましてほしいと考えます。わたしたちの感覚は、この刺激の溢れる社会のなかで、逆に麻痺してしまっているかもしれません。けれど、そんな世の中であえて静かな絵を提示し、各々のもつ想像力に語りかけることに、わたしは挑戦したい。
向こうに見えるもの、それは言わばその人自身が作り出したもの、映し鏡にすぎないのかもしれません。けれど、想像力というものが、相手を知ろうとすること、世界を知ろうとすることにつながることを期待しています。こちらと向こう、それを隔てる境界線がはっきりとしたかたちを成すことはないのでしょう。でもそれを追うあたりに、世界を救うような、ちいさくても優しいちからが生まれると、わたしは信じている。
14/01/2014
この白い画面は、あなたと向こう側を隔てる境界である。すきまから見えるものが、宇宙であろうとただの絵の具の層であろうと、それはあなたにとっての真実であるはずです。そこに何が見えるのか。あなたの経験の積み重ねや、それに基づいたあなた自身の想像力が見せる何かであると、そんなふうにわたしは考えます。
タッチパネルの向こう側に見える膨大な情報を、日々享受する現代。ゆびさきの動きひとつで世界を知った気になる、そんなわたしたちのことをときに怖く思うことがあります。嘘か本当かも知れないその膨大な情報を受け入れ、それぞれに偏った「真実」を構築する。たしかに世界は近くなりました。けれど、果たしてその“タッチパネル越しの世界”は本当に存在しているのでしょうか?その答えを知るのは、その足で歩き、手で触り肌で感じ、事実を積み重ねたとき。
今回の作品群の鍵は、少女がわたしの足もとで発したひとつの疑問にあります。「ねえ、蛍ってなにいろ?」これに言葉で的確に答える術を、わたしは持ちません。けれど、「蛍を見る」という同じ経験をした人にはそれを思い出すことができるはずです。絵の中のよぶんな説明を省いた分だけ、そこに各々の想像力をはたらかせる余地が生まれると考えています。わたしが何を見たか、は、重要ではありません。わたしの作品が観る人自身の記憶を喚起する役割を持てればいい。「蛍はなにいろ?」への答えを、凛と静まる空間のなかで、絵と対峙するあなたのなかに思い出してほしい。
画面を覆った白は、すべての色を反射した光の色。たとえばすべてをあなたに返したなら、あなたのなかでどんな記憶と結びつくのでしょうか。事実と想像力からなる「真実」は、ときにやさしく、世界を救うちからになると信じて。
11/09/2013
水平線、それは自己と世界の境界線。
なんどもなんどもあのラインを見に行ったのは、その向こうに冷静な自分自身をさがしていたのかもしれません。自分の無意識の部分との対話、そしてそれは、わたしが何たるかを明らかにする行為につながるような気がするのです。あのラインを描くことで自分とそして世界の輪郭を知ることができる。けれど、到達したと感じた瞬間、水平線はまた遥かとおくに見えるのです。いったい誰が、世界を正確につかむことができるのでしょうか。
半透明で曖昧なライン、白で覆われたその下からにじみ出す色とテクスチャ、キャンバスのエッジに残る色の重なりの痕跡。「隠す」ことによってこれら微妙なヒントを少しだけ残し、そのプロセスのなかで何が起きていたのかを、追ってもらう。はっきりと答えの見つからない絵を通して、想像力を研ぎ澄まし、観る人自身の美を探してもらいたいと思っています。たとえば、情報の氾濫する今の社会で、与えられる情報はただなんとなく刺激として簡単に知覚されてしまう。わたしたちの感覚は麻痺してしまったかもしれません。けれど、そんな世の中であえて静かな絵を提示し、各々のもつ知覚能力に語りかけること、ひいては彼ら自身を知ってもらうことに貢献できればと願うのです。
己と世界、己の内と外。わたしたちはいつも、その境界線の上を歩いているのではないでしょうか。そしてそこにはきっと、良くも悪くも相互作用がある。その境界線はたとえばリミナル(=識閾)であるのかもしれない。もしくは、ただ内と外を分ける皮膚のようなものかもしれない。それがはっきりとしたかたちを成すことはないだろうけれど、あのラインのあたりに何か答えが見つかりそうな気がするのです。
14/09/2012
水平線、それは自己と世界の境界線。
波がうなり雲がはしろうとも、その境界線に近づくにつれてあたりは静けさにつつまれる。なんどもなんどもあのラインを見に行ったのは、その向こうに冷静な自分自身をさがしていたのかもしれません。自分の無意識の部分との対話、そしてそれは、わたしが何たるかを明らかにする行為につながるような気がするのです。あのラインを描くことで自分とそして世界の輪郭を知ることができる。けれど、到達したと感じた瞬間、水平線はまた遥かとおくに見えるのです。いったい誰が、世界を正確につかむことができるのでしょう?
閉じられたちいさな空間に鑑賞者を招き入れ、絵と絵の作りだす空気でつつみこむことによって彼らが彼ら自身と向きあう空間をつくる可能性に挑戦しています。絵のなかに生じた微妙な時間の軌跡をたどることで、観る人のなかにも自分と向き合う時間が生まれ、その静けさのなかでそれぞれの世界を知ることができる。
己と世界、己の内と外。わたしたちはいつも、その境界線の上を歩いているのではないでしょうか。意識的に、そして無意識的に。そしてそこにはきっと、相互作用がある。リミナル=識閾(しきいき)に触れ、自分と世界との「距離」を探る体験を提供できたら、と考えています。絵と鑑賞者のみなさんとのあいだにも、静かな作用が生まれることを期待して。
15/05/2012