そらの色くうの匂い
大学時代からしばらくは「そらの色くうの匂い」と題して、身のまわりの風景と自身の大きさとの対比から「わたし 対 外界」を意識した制作に移行します。
じぶんの存在の小ささや儚さをとても内省的に捉え、詩作も多く行いました。空と人工物との境目、境界線。空の色の移り変わり。季節や時間での色の移り変わり。そこに人間としてのじぶんの存在のちっぽけさや儚さ、そして諸行無常に切なさや悲しみを感じていました。
これは子どもの頃から感じていた「時間とともに失われるもの」への感情と同じものであると思っています。そこに自意識が加わり、時間とともに失われるもののなかでの、わたし自身の立ち位置を探していたのかもしれません。


知らない土地や旅先の風景のなかでじぶんの存在を見つめなおす。空と海、そして水平線を眺めながらじぶんをちっぽけな砂粒ほどの存在と再認識する。
わたしは自然の、宇宙の、ほんの小さな一部にすぎない。それを再確認することで、「時間とともに失われる」怖さから解放されようとしていたのかもしれません。

「そらの色くうの匂い」
そらを見上げたり水平線を眺めたり自然を見つけるといつも、知らない気持ちが溢れます。過去に見た景色なのか、とおい昔から私のDNAに刻まれているのか、何にしろ私自身は知らない懐かしさが鼻孔をくすぐるのです。それが何なのか知りたくもありますが、ただ感じるままに心の色をそらに投影していたい。そして、同じこの景色を前に、観る人の心にも作用できたらとキャンバスに色をのばします。私の見たあの色はわたしの瞳の中で合成されたものですが、あなたの瞳のなかではどんな色に映るのでしょうか。
ひとつの線で切り取られたそら。水平線・地平線は言うに及びませんが、建物の縁で切り取られたそらにも心打たれます。それは、人工物の無機質な直線で分断されてなお、その背後に雄大なそらの存在を感じさせるからです。ちっぽけな私たちがどんな手を講じても、あのそらを押し止めることはできない。それは、水平線・地平線の彼方に手が届かないことと同義。そのことに気づいたとき、自分がひどくちっぽけな、ひと粒の砂くらいの存在に感じてしまいます。悲しいのではない。恐ろしいのでもない。こんな想いを、感じている人もいるのでしょうか。
未だに拡がりつづけるあのそらの、端っこに手は届くまい、けれど、想いなら馳せることができます。そらが拡がりつづける限り、私の色もひろがりつづけます。
“The History of Emerald”

こびとになった気分で
ただただ
呆然と畏れに目をそらせば
それでもつづく
水平線空と海とを分けるのか
くもがゆき、
風がくる手を
延ばすことさえ叶わない
あの境界では空も海も立ち止まる
わにぶちみき ニュージーランド the Lake Pukaki にて(2011)